カレー鍋

カレー鍋が食べたい。

 

無性にカレー鍋が食べたくなった。

 

小学校高学年の冬だっただろうか。カレー鍋が爆発的に流行した。お茶の間のテレビCMではカレー鍋が宣伝され、スーパーではカレー鍋の素がずらりと陳列され、食卓にカレー鍋が登場すると子供達は歓喜した。実際、美味しかった。なんと言ってもカレーである。大抵の人間は愛しているといっても過言ではないカレーである。それが鍋になって文句を言う人間など存在するまい。

 

しかし、流行というのは儚い。記憶が間違っていなければ、翌年にはトマト鍋が流行し、カレー鍋の人気は翳りを見せた。更にその翌年からはキムチ鍋が流行し始めた筈だ。カレー鍋はすっかり鳴りを潜めたのだ。

 

実家ではキムチ鍋が余り好まれなかった。単に親の好みの問題である。そのため三年ほどは、冬の食卓にカレー鍋が現れることがあった。しかし、ある出会いが事態を変えた。

 

「とり野菜みそ」である。

 

これは石川県にあるメーカーが製造している味噌鍋用の味噌である。今でこそスーパーで見かけるものの、かつては通販での取り寄せでしか入手することができなかった。たまたま譲ってもらったこの「とり野菜みそ」が我が家の食卓に登場して以来、自分を含めた家族はとり野菜みそヘビーユーザーになってしまった。インターネットの苦手な親がわざわざ通販で注文するレベルではまってしまったのだ。

 

この運命の出会い以降、食卓にカレー鍋が登場する頻度は年々減っていき、結局ここ数年間はカレー鍋を食べていない。

 

一人暮らしを始めて一年が経とうとしている。味噌鍋、キムチ鍋は何度も食べたが、カレー鍋は食べていない。冷凍庫に「とり野菜みそ」は残っているがカレー鍋の素はない。しかしカレー鍋が食べたい。これは買いに行かざるを得ない、と自転車の鍵を持って半ば衝動的にアパートの部屋を出た。

 

カレー鍋の具材は何だったか。いつも通っているスーパーへ向け自転車を漕ぎながら古い記憶を辿る。肉は自明、きのこは入っていたがこれもまた冷凍庫に残っている、人参とネギは先週買ったものがある、豆腐は別のスーパーで買った方が安い、キャベツも入れていたが今の時期高いからカット野菜を使う、と大学生らしく頭が回転してきた。さてあとは買うだけである。

 

無い。

 

カレー鍋の素が無い。

 

塩ちゃんこ、キムチ、寄せ、寄せ、きのこの旨味、味噌、寄せ、キムチ。何だこれは。鍋の素コーナーはキムチ鍋と寄せ鍋を推しているようだ。念のため野菜コーナー、肉コーナー、およびカレールーのコーナーも確認したが、カレー鍋の素が無い。

 

仕方ない。このスーパーにはフルーツミックスブルガリアヨーグルトも朝食りんごヨーグルトも置いていないのだから、その程度の偏りはある筈だ。とりあえずカレー鍋の素と豆腐以外の具材を購入して店を後にした。

 

自転車で坂を下ってしばらく進むと、別のスーパーがある。この店にはフルーツミックスブルガリアヨーグルトが置いてある。時々朝食りんごヨーグルトを置いていることもある。少し価格が高く設定されているが、いつものスーパーで賄いきれない分があるならここで買えばいい、そんな店だ。

 

無い。

 

カレー鍋の素が無い。

 

きのこの旨味、ポトフ、キムチ、トマト、寄せ、寄せ、白菜塩、キムチ、味噌、寄せ、ちゃんこ、白湯。何だこれは。トマト鍋とポトフ鍋を置いている辺り、その辺のスーパーが賄いきれない分をちゃんと回収しているようで素晴らしい。しかし、しかしだ。何故カレー鍋の素が無いのだ。やはり肉コーナーとカレールーのコーナーも確認したが、カレー鍋の素が無い。

 

そこから歩いて2分程の、チェーン店ではないスーパーへ向かう。チェーン店ではない故に小回りが利くのであろう、ここは常に朝食りんごヨーグルトを置いている有難い店である。どうしても食べたくなったときはここに来ればよい。とりあえず豆腐が安かったので買っておこう。さて、問題は次だ。

 

無い。

 

カレー鍋の素が無い。

 

キムチ、ちゃんこ、寄せ、味噌。何だこれは。そもそも鍋の素自体少ない。確かに沢山の種類を置いても採算が取れないのであろうが。腹いせに、朝食りんごヨーグルトも追加で買って店を後にした。

 

もう残り一軒しか心当たりがない。先程のトマト鍋を置いていたスーパーの斜向かいにある、中〜上流階級のマダムをターゲットにしたかのような、やや高級志向のスーパーだ。ここなら他の店に売っていないような調味料が揃う。最後の望みを掛けるしかなかろう。

 

無い。

 

カレー鍋の素が無い。

 

というか鍋の素コーナーはどこだ。肉コーナーの脇にキムチ鍋と白湯スープ、醤油コーナーにちゃんこと寄せ。鍋の素専門の場所はないのか。仕方ないから、鍋のつゆはどこですかと肉コーナーにいた店員に尋ねる。肉コーナーの店員が、別の肉コーナーの店員へ尋ねる。忙しいところ申し訳ないのでとりあえず平謝りしておこう。その肉コーナーの店員が、豆腐を陳列していた別の店員に尋ねる。忙しいところ申し訳なさすぎるから、やはり平謝りせざるを得ない。

 

「これですかね」豆腐の店員が指をさす。

 

「本格和風だし100g」

 

違う。

 

「はい、これです、ありがとうございます」

 

これ以上店員に迷惑をかけるのも面倒だから、満足した振りをしてその場をやり過ごし、何も買わず店を後にした。

 

夕暮れの肌寒い遊歩道で自転車を走らせながら、かつての記憶を思い出す。「カレー鍋ならハウス♪」とCMを流していたのはどうなったのだ。俺が食べたかったのは一体何だったのだ。もはや、カレー鍋はこの世界において、存在を抹消された存在でしかないのだ。そしてカレー鍋を食べたがっている俺は無力なマイノリティに過ぎない。

 

抹消された存在と、それを食べたがる少数者。

 

今まで生きていて、マイノリティになったことなんてあっただろうか。いつだって多数派だったのではないか。せいぜい極度の運動音痴で恥をかいたくらいだろう。少数者であることの不利益にまさかこんな所で遭遇するとは。この不利益を克服するために一体どれくらいの苦労が必要なのだろうか。他のマイノリティに比べたら可愛いものだ。家に帰ってアマゾンで買えば終わる話だろう。しかし俺は今現在、今晩、カレー鍋が食べたいのだ。一体いくら払えばカレー鍋が食べられるんだ。

 

帰り道に通りかかった近所の100円ローソンにヤケクソで入ったら、カレー鍋の素があった。

108円だった。

 

 

まつや とり野菜みそ 340g

まつや とり野菜みそ 340g